悩み続けること

自分のことで悩む、というのは、情報過多な現代においては結構な贅沢だとさえ思えるのです。情報過多だから、選択肢がたくさんあるから悩むんじゃないかというのは至極真っ当な指摘で、かの大平健さん(『豊かさの精神病理』『やさしさの精神病理』で有名ですね)も選択肢が多いことで葛藤が生じて、それが現代人のストレスになっている、というようなことを書いていた気がします。今手元に本が無いので確認のしようがないのですが……。

何が正しいのか、ということを人生を通して考え続けている気がします。このままだとすこし語弊があるので、省略をせずにきちんと書いてみると、「絶対的な正しさが存在しない中で、自分は何を正しさとするのか」ということになるのだと思います。
わからない、のです。世の中はわからなくてもいいことだらけかもしれないけど、だからといってその「わからない」を未解決のまま放置するのも大変にむず痒く、いっそ気持ち悪ささえ感じてしまいます。

全てが正しいし、全てが間違っている。わたしが自分の不可思議な人生と、その過程で得たもの――わたし自身の経験と他者からもらった言葉たちには、たくさんの矛盾がありました。

そう、矛盾。「一貫性がある」ということがやたらと持てはやされる現代ですが、実際には人間も社会も矛盾に満ち満ちています。しかし、それを一向に認めたがらない。認めることができない、と言うこともできるでしょう。社会システムには定義が不可欠であり、相反する性質を同時に酌むなんていう芸達者な真似は、システムという無骨な網の目には求められていません。
それができるとしたら、やっぱり一人ひとりの人間だということになるのだと思います。そして、彼らはいつでも、システムのいたるところに立っています。人間が人間という種のためにつくり、それを自分たちで運用している。だから、それを利用するときにはやっぱり、人と関わるしかないのです。

何にせよ……人と関わり、人で構成される社会と関わっていると、ほんとうに悩みは尽きません。悩むのは生者の特権と言ってもいいかもしれない。だからこそ死にゆく人たちがいるのでしょう。彼らにとってその特権はあまりにも大きく扱いづらく、義務のように重くのしかかり、そうして心をつぶしていったのだろう、と……。
わたしはどうせ死ねないので、特権はとことん使い潰してやろうと、どこかで思っています。わたしは悩むということに人よりもずっと囚われていて、それはこれから……どこまで続くのかはわかりませんが、生涯を通してずっと大多数の人々より悩み続けるような気がします。

懐疑的な人間にとって、何かを伝えるという行為は、ひどく難しいことに感じられます。それでもこうして書いているけれど、やっぱり全部を書ける気がしない。わたしは言葉をつくづく愛していて、そうして、言葉の限界に何度も絶望します。
誰かに向けて何かを書く、というのは目標であり同時に夢でもあるのですが、誰かに向けた瞬間に、とても多くのものが抜け落ちていく感覚があって、いまだに何かを書ける気がしない。その点独白は便利です。誰にも向けていなかったら、それは伝えたことにはならないのですから。

実際にはこういったことをブログという形で公開しているのですから、ここにもまた、矛盾が生じます。ただ、ほんの一瞬、「過不足なく何かを伝えたい」という叶えられない願いを持った自分を誤魔化すだけなら、なかなか便利な方便だと思うわけです。